2017年12月21日
安里繁信のしげ脳vol.339「貧困に対してできること」
安里繁信のしげ脳vol.339「貧困に対してできること」

琉球新報に寄せた文章
幸喜)
今日は会長に意見を聞きたいことがあるんです。
安里)
なんでしょう。
幸喜)
会長の周りに、貧困家庭のお子さんっていますか?
私は今まで子供と触れ合うことがなかったので
貧困の子供なんて本当に沖縄にいるのかな?と疑問だったんです。
でも、最近お友達になった小学生の子が
たまに週末に会うとお昼ご飯が親に渡された300円しかなくて
コンビニのおにぎりとポテトフライを買って食べていたり
揚げ物の弁当ばかり食べていたりして、栄養面を心配してたんです。
でもシングルマザーで兄弟も何人かいて
母親は週末も働いてるようなので
しょうがないんだろうな、
お母さん頑張ってるんだはずな、と思っていたら
先日「今日はお昼ご飯ない」と言ってて。
お昼代をもらえなかったみたいなんですね。
それにすごくびっくりして。
きっとお腹空いてるはずなのに
「食べなくて大丈夫」って言ってるのが可哀想で、
ほっとけないので私の仕事の手伝いをさせて
バイト代の代わりに私の弁当を分けあって食べたんですが・・・
これが貧困なのかな、と。
それと同時に、自分が何をしてあげられるのか考えてしまいました。
日々のご飯やお金をあげるわけにもいかないので、
「ちゃんと勉強して賢くなって大人になったら稼ぐんだぞ」と
教えるぐらいしかできないな、と思ったんですが
会長もそういう場面に出くわすことありますか?
安里)
僕のところにもいろんな方が相談に来るから、
中にはそういう内容もありますが
改めて思うのは「貧困の連鎖」。
前にも話したかもしれませんが、
戦後、日本には戦争未亡人も戦争孤児もたくさんいて
日本本土ではその方々に手当を出してきたんです。
ところが沖縄は米軍の統治下に置かれたでしょう。
だから沖縄の未亡人や孤児たちは
放置されてきたんです。
復帰するまでの27年間も。
もちろん民間でのサポートの動きはあったでしょうが、
国の戦略的にはされてなかった。
その時に愛情や教育を受けなかった故の貧困の連鎖というのが、
今の沖縄の貧困家庭の根っこにあるんじゃないか、
という定義をする先生がいらして。
もちろん全ての家庭ではないにせよ
ゼロではないと思うんですね。
幸喜)
そういう歴史的な背景もあるんですね。
戦後70年も経つのに解決できていない。

沖縄タイムスに寄せた文章
安里)
なんでかって言うと、
昔はそういう貧困の問題が見えにくかった。
みんな一様に貧しかったということもありますし、
昔は「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるように
貧しくても保護を受けるなんて
かっこ悪い、という美意識もあった。
でも今は生活保護を受けることも
権利として認識されてきているから
生活が苦しい方々も堂々とそう言えるようになってきた。
怪我や病気で働けない方とか、
恥ずかしくて保護をもらいに行くことが
躊躇されていた時代よりも、
本当に苦しんでいる方々の生活が
当たり前のこととして保護されることは
とてもいいことだと思います。
ただ、その間にいる子供達が
自分の置かれている状況をどう感じているのか。
特に不正受給の問題も指摘されていますが、
そういった場合を含めて
子供達の置かれた状況や彼らがどう感じているのか、
強く意識して考えるようにしています。
靴も買えない、制服も買えない子供がいるという話も聞くし
朝子の友達の子みたいなお腹すかせている子もいる。
僕らはますますその流れから目を背けられない。
幸喜)
私が感じるのは、親以外の大人の姿も見て
目標を見つけて欲しいということです。
貧困という環境を自ら脱する努力をしてほしい。
だからこそ、地域みんなで子どもと関わる大切さを感じます。
安里)
だけどコミュニティが崩壊してる時代でしょう、
隣の家の子が何してるのか関心を持たない時代になってて
その見えないところで育児放棄があったりする。
でもこの子供達が未来を作るわけですから、
政府が保育料の無料化への取り組みを検討したり
子供食堂を作ったりしてるけど、
国や企業が何をしてくれるのか
期待するだけではダメですよね。
僕ら自身、この課題を永遠に意識しながら、
気にかけながら、向き合いながら
生きていかなければいけないんじゃないかな、と感じる。
幸喜)
意識するだけでも見えるものが違ってくるということですね。
安里)
うん。間違いなく言えることは、
その子達が未来を作っていくということ。
だからね、2000年の前半だったと思うんですが、
教育の地域格差を生むきっかけがあったんです。
幸喜)
というと?
安里)
これまで義務教育は憲法にうたわれているとおり、
国策として文科省が決めた予算があったんです。
それが三位一体改革の中で一般財源に
組み込んでいいということになったんです。
つまり、各自治体の裁量の中で予算を決めていいということ。
幸喜)
ああ、それだと地域間の格差が生まれますね。
安里)
そうなんです。教育格差を生んでしまった。
この制度は今も変わっていない。
だからこれまでは義務教育に使う予算として
目的が明確だったのに、
各自治体に権限を下すことで
効率化が図られて学校の統廃合が進んだりして
先生の負担も大きくなっていった。
そうして先生の四人に1人は
メンタルをやられていると言うでしょう。
幸喜)
周りでも聞きますね、
鬱や精神疾患でもう何年も休んでいるという先生の話。
安里)
その状況では
教育現場をどうしていきたいのか、
我が国はどんな人を育てていきたいのか、
見えないよね。その課題も横たわっている。
幸喜)
貧困と一言で言っても複雑ですね。
安里)
そうやって地域間格差が生まれてしまったが故に
教育にお金がかかるようになった現実があって
それは学力格差が所得格差に
つながってしまう可能性もありますよね。
幸喜)
本当にそれは感じます。お金のあるお家だと
どんどん勉強の機会を与えるし、
そうじゃないお家では勉強するノートも
節約のために必要以上に使うなと叱ったりする。
格差は広がるばかりだなと感じます。
そうやっていろいろ考えを巡らせていると、
結局その子自身の生きる力というか、
なにくそと環境をバネに奮起することを
期待するしかないのかな、と思ってしまうんですよね。
安里)
そうだね。
だから僕らが見たもの触れたもの、
特にあなたとその子は出会ったわけですから
限界はあるけど、ちょっと意識して
できることをやってあげたらいいと思います。
幸喜)
そうですね、親とは違う生き方もあって、
それは自分で選べるんだと知ってほしいですし、
そういう子が私と出会ったことで
深夜徘徊の末にヤンキーになる、
という道を選ばずにすめばいいなと。
会長みたいにヤンキーから更生するとは限りませんからね(笑)
安里)
おい(笑)
とにかくね、そういうことを、
伝える立場の人間として常に発信し続ける。
そうやって出会った子たちに無理せずに
向き合えればいいんじゃないでしょうか。





琉球新報に寄せた文章
幸喜)
今日は会長に意見を聞きたいことがあるんです。
安里)
なんでしょう。
幸喜)
会長の周りに、貧困家庭のお子さんっていますか?
私は今まで子供と触れ合うことがなかったので
貧困の子供なんて本当に沖縄にいるのかな?と疑問だったんです。
でも、最近お友達になった小学生の子が
たまに週末に会うとお昼ご飯が親に渡された300円しかなくて
コンビニのおにぎりとポテトフライを買って食べていたり
揚げ物の弁当ばかり食べていたりして、栄養面を心配してたんです。
でもシングルマザーで兄弟も何人かいて
母親は週末も働いてるようなので
しょうがないんだろうな、
お母さん頑張ってるんだはずな、と思っていたら
先日「今日はお昼ご飯ない」と言ってて。
お昼代をもらえなかったみたいなんですね。
それにすごくびっくりして。
きっとお腹空いてるはずなのに
「食べなくて大丈夫」って言ってるのが可哀想で、
ほっとけないので私の仕事の手伝いをさせて
バイト代の代わりに私の弁当を分けあって食べたんですが・・・
これが貧困なのかな、と。
それと同時に、自分が何をしてあげられるのか考えてしまいました。
日々のご飯やお金をあげるわけにもいかないので、
「ちゃんと勉強して賢くなって大人になったら稼ぐんだぞ」と
教えるぐらいしかできないな、と思ったんですが
会長もそういう場面に出くわすことありますか?
安里)
僕のところにもいろんな方が相談に来るから、
中にはそういう内容もありますが
改めて思うのは「貧困の連鎖」。
前にも話したかもしれませんが、
戦後、日本には戦争未亡人も戦争孤児もたくさんいて
日本本土ではその方々に手当を出してきたんです。
ところが沖縄は米軍の統治下に置かれたでしょう。
だから沖縄の未亡人や孤児たちは
放置されてきたんです。
復帰するまでの27年間も。
もちろん民間でのサポートの動きはあったでしょうが、
国の戦略的にはされてなかった。
その時に愛情や教育を受けなかった故の貧困の連鎖というのが、
今の沖縄の貧困家庭の根っこにあるんじゃないか、
という定義をする先生がいらして。
もちろん全ての家庭ではないにせよ
ゼロではないと思うんですね。
幸喜)
そういう歴史的な背景もあるんですね。
戦後70年も経つのに解決できていない。

沖縄タイムスに寄せた文章
安里)
なんでかって言うと、
昔はそういう貧困の問題が見えにくかった。
みんな一様に貧しかったということもありますし、
昔は「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるように
貧しくても保護を受けるなんて
かっこ悪い、という美意識もあった。
でも今は生活保護を受けることも
権利として認識されてきているから
生活が苦しい方々も堂々とそう言えるようになってきた。
怪我や病気で働けない方とか、
恥ずかしくて保護をもらいに行くことが
躊躇されていた時代よりも、
本当に苦しんでいる方々の生活が
当たり前のこととして保護されることは
とてもいいことだと思います。
ただ、その間にいる子供達が
自分の置かれている状況をどう感じているのか。
特に不正受給の問題も指摘されていますが、
そういった場合を含めて
子供達の置かれた状況や彼らがどう感じているのか、
強く意識して考えるようにしています。
靴も買えない、制服も買えない子供がいるという話も聞くし
朝子の友達の子みたいなお腹すかせている子もいる。
僕らはますますその流れから目を背けられない。
幸喜)
私が感じるのは、親以外の大人の姿も見て
目標を見つけて欲しいということです。
貧困という環境を自ら脱する努力をしてほしい。
だからこそ、地域みんなで子どもと関わる大切さを感じます。
安里)
だけどコミュニティが崩壊してる時代でしょう、
隣の家の子が何してるのか関心を持たない時代になってて
その見えないところで育児放棄があったりする。
でもこの子供達が未来を作るわけですから、
政府が保育料の無料化への取り組みを検討したり
子供食堂を作ったりしてるけど、
国や企業が何をしてくれるのか
期待するだけではダメですよね。
僕ら自身、この課題を永遠に意識しながら、
気にかけながら、向き合いながら
生きていかなければいけないんじゃないかな、と感じる。
幸喜)
意識するだけでも見えるものが違ってくるということですね。
安里)
うん。間違いなく言えることは、
その子達が未来を作っていくということ。
だからね、2000年の前半だったと思うんですが、
教育の地域格差を生むきっかけがあったんです。
幸喜)
というと?
安里)
これまで義務教育は憲法にうたわれているとおり、
国策として文科省が決めた予算があったんです。
それが三位一体改革の中で一般財源に
組み込んでいいということになったんです。
つまり、各自治体の裁量の中で予算を決めていいということ。
幸喜)
ああ、それだと地域間の格差が生まれますね。
安里)
そうなんです。教育格差を生んでしまった。
この制度は今も変わっていない。
だからこれまでは義務教育に使う予算として
目的が明確だったのに、
各自治体に権限を下すことで
効率化が図られて学校の統廃合が進んだりして
先生の負担も大きくなっていった。
そうして先生の四人に1人は
メンタルをやられていると言うでしょう。
幸喜)
周りでも聞きますね、
鬱や精神疾患でもう何年も休んでいるという先生の話。
安里)
その状況では
教育現場をどうしていきたいのか、
我が国はどんな人を育てていきたいのか、
見えないよね。その課題も横たわっている。
幸喜)
貧困と一言で言っても複雑ですね。
安里)
そうやって地域間格差が生まれてしまったが故に
教育にお金がかかるようになった現実があって
それは学力格差が所得格差に
つながってしまう可能性もありますよね。
幸喜)
本当にそれは感じます。お金のあるお家だと
どんどん勉強の機会を与えるし、
そうじゃないお家では勉強するノートも
節約のために必要以上に使うなと叱ったりする。
格差は広がるばかりだなと感じます。
そうやっていろいろ考えを巡らせていると、
結局その子自身の生きる力というか、
なにくそと環境をバネに奮起することを
期待するしかないのかな、と思ってしまうんですよね。
安里)
そうだね。
だから僕らが見たもの触れたもの、
特にあなたとその子は出会ったわけですから
限界はあるけど、ちょっと意識して
できることをやってあげたらいいと思います。
幸喜)
そうですね、親とは違う生き方もあって、
それは自分で選べるんだと知ってほしいですし、
そういう子が私と出会ったことで
深夜徘徊の末にヤンキーになる、
という道を選ばずにすめばいいなと。
会長みたいにヤンキーから更生するとは限りませんからね(笑)
安里)
おい(笑)
とにかくね、そういうことを、
伝える立場の人間として常に発信し続ける。
そうやって出会った子たちに無理せずに
向き合えればいいんじゃないでしょうか。




2017年12月15日
安里繁信のしげ脳vol.338「僕らの島をどう作る?平良港国際クルーズシンポジウム」

安里繁信のしげ脳vol.338「僕らの島をどう作る?平良港国際クルーズシンポジウム」
安里)
宮古島で国際クルーズ船のバース(岸壁)を
整備する事業がスタートしたんですが、
その起工式に伴う市民参加型のフォーラムが9月末に行われたので
コーディネーターとして参加してきました。
主催が宮古島市で、共催が内閣府沖縄総合事務局です。
僕はOCVB((財)沖縄観光コンベンションビューロー)の会長時代に
クルーズ船の誘致を進めていたこともあるので
いい機会だと思い参加させていただきました。



幸喜)
宮古島は今すでに海外からのクルーズ船が寄港してますよね。
安里)
うん、でも今は大きな船が港に着岸できないので
沖合に止めてから渡し舟で港に入ってくるんです。
ですから、その整備をしていこうと。
その事業を行政だけで開発するんじゃなくて
世界有数のクルーズ船の会社
「カーニバル社」も担うことになった。
つまり東アジアの拠点として
彼らが投資をするということです。
幸喜)
世界有数の会社が!
それだけ宮古島の立地がいいということですよね。
安里)
うん、彼らが成長戦略を描く上で
沖縄を起点とする東アジア全体の市場開拓の
アクションの一つだと思うんですが、
すごいことですよね。
こういうフォーラムでは
受け入れしていくにあたって
どんな課題があるのか、
観光客に何が提供できるのかという
議論が交わされるわけですが、
クルーズ船に乗ったことある人がいるか聞いてみると
600名ほどが参加している会場で
1人、2人しかいなかったんです。
幸喜)
これは少ないですね!
もちろん私も乗ったことはないです。
安里)
パネラーで参加していた長濱副市長は、
乗ったことがあるけど船内で嫁と2人きりで
会話が続かなかったと言って笑いを取っていましたが(笑)
経済という視点を持って乗船した方がいないんですね。
だから僕の考えとしては、経済界、行政あげて
まずはカリブを始めとするクルーズ船寄港地の
先進地を見に行くべきだとお伝えしました。
クルーズ船が来る前と来た後で島がどう変わったのか、
経済の規模がどう変わったのか、
自分の目で見ることが必要だと思うんです。
バスが何台必要なのかとか何を整備するかとか
そいういうことも大事ですが、それは受け入れる側の声。
つまり、まだプロダクトアウトの世界なんですよね。
それをマーケットインの発想に変えていかないといけない。
どういう島にしていこうか、
これを起爆剤にどんな街づくりをしていこうかと
考えなきゃいけない人たちが
誰もクルーズ船に乗ったことがないわけですから、
議論するよりまず見に行くことだと思うんです。
幸喜)
なるほど、言われてみるとこんなに当たり前なのに
言われないと気づかない、盲点ですね~!
安里)
例えばカリブのある島ではね、
長いバースを1本作ったんですが
そこに船が2隻停められるようにしたんです。
1隻で3000人とか乗ってるわけですから、
1隻しか停められないのと、2隻停められるのでは
呼びこめる客数が全く違ってくる。
幸喜)
へぇー!!!
安里)
そして、船を降りたところにすぐビーチがある。
わざわざ交通機関を使って移動しなくても
すぐ遊べるようになってるんです。
またすぐそこにショッピングエリアがあって、文化体験施設がある。
バースを拠点にどう過ごしてもらうか、緻密に計算されてるわけです。
こちらとしても限られた時間内で
バスに乗って何時間も移動するより
身近で効率よく消費してもらった方がいいわけです。
幸喜)
お客さんとしても移動に時間取られたくないですし、
宮古島としても時間内フルマックスで
消費に当ててもらった方がいいですよね!
なるほど!
安里)
クルーズ船に限らずなんでもそうです。
カジノ作ろうって言っても、自分の目で見て遊んで
そこにいる人の声を聞いてから動ける人って少ないんです。
僕らつい憶測で意見を言ってしまうし、
声の大きな人の意見をなんとなく受け入れてしまったりしますが、
「僕らの島をどうするか」
「どんな街を作るか」
自分たちで考えていかないと、
またどこかの研究所が考えた案の
焼き直しになっちゃう。
幸喜)
誰も責任取らない代わりに、つまらないものになってしまう。
行政の作るものにありがちだなと感じます。
沖縄の成功事例だと北谷町のアメリカンビレッジが思い出されますね。
安里)
でもあれは行政じゃなくて、
奥原さんという地主の方が描いて仕掛けてるんですよね。
幸喜)
そうか、そうですね!
ブエノチキンも出店したらー、
と奥原さんにお声かけ頂いたことがあります!
自分の土地だから自由に街を描けたんですね。
安里)
うん。どんな島を作る、っていう「どんな」を
より具体的に描くためにも
先進地を見に行く必要があると思いますね。
幸喜)
それにしても、会長のその「現場を見なければいけない」
という発想はどこから出てくるんですか?
会社経営においても、ずっとそういう考えでやってきてますよね。
安里)
僕が何も知らないから出てくるんだろうね。
幸喜)
なるほど!
安里)
自分で見る、触れる。
そうじゃないと説得力がないですよね。
「自分が担当してる施設をどうやったら黒字にできるか」
というような相談も多いんですが、
逆に「どんな国のどんな施設を目指していますか」と聞くと
きょとんとしちゃう方が多い。
ウィーンにあるあの音楽ホールみたいに、とか
カリフォルニアのライブハウスが、とか
あるいはブルーノートみたいにジャズの聖地にするんだ、とか
それがイメージできればアイデアも湧いてくるし、
戦略も全然違ってくる。
そういうイメージがないまま、
水道光熱費がいくらで補助金がいくら、
だから運営費がいくら、
という話だけしててもダメなんです。
幸喜)
ロマンが欠けてるんですね!
安里)
そうそう!
「ロマン」と「そろばん」は
絶対セットなんです。
安い施設だから使ってもらえる、
ということだけじゃないんです。
便利でなくても手間暇かけてでも使いたい場所とか
不便だけど行きたいお店ってあるでしょう。
それがロマンですよ。
目先の数字を転がしてしまうと見えなくなってしまうけど、
一番大切な何かが、そこにある気がします。
クルーズ船でどれだけの人数が来て、いくら消費してもらえれば
ペイするという話ももちろん大事ですが、
何を提供したいのか、どんな島を作りたいのか。
それが一番大事だと思います。
まだまだ世界は進化してるし人類は成長してますから、
その中で僕らがどう生きていくか考えるきっかけになって
このフォーラムからはいい学びを頂きました。
幸喜)
宮古島の発展が楽しみですね!
私もカリブの視察について行きたいです!




2017年11月15日
安里繁信のしげ脳vol.337「『誰が』やるかの大切さ〜京都観光おもてなし大使との対談〜」
安里繁信のしげ脳vol.337「『誰が』やるかの大切さ〜京都観光おもてなし大使との対談〜」

幸喜)
私が娘とともにインフルエンザにかかってしまい
久しぶりの更新となりますが・・・
今日は素敵なゲストの方にお越しいただきました!
島田)
京都観光おもてなし大使を務めております、
株式会社クリップ代表の島田昭彦です。
●株式会社クリップ http://www.clip-fromkyoto.com/
安里)
初めまして、ようこそ!
幸喜)
島田さんは京都の伝統工芸品をリプロダクトして
世界に向けて打ち出したり街づくりをしたりと幅広い活動をされています。
代表的な仕事として、サントリーが手がける
「伊右衛門サロン」というカフェがありますが、安里会長ご存知ですか?

●伊右衛門サロン http://iyemonsalon.jp/
安里)
存じております!
僕も京都は講演会や勉強会で何度も足を運んでいて
大好きな街です。
島田さんは面白い仕事をされてるんですね。
伊右衛門サロンはサントリーが仕掛けているんですか?
島田)
そうです。あれはお茶の「伊右衛門」のブランドをもっと立体展開し、
その中でリアルに人と人が巡り会いお茶を楽しむ目的で作られました。
僕はその場所探しやコンセプト、空間デザインの監修、
開業後の監修を引き受けています。
安里)
へえ、すごく素敵な空間でした。
島田さんは京都ご出身ということですが、
どういった経緯で今のお仕事をされてるんですか。
島田)
僕の実家は京都で家紋を描く仕事をしていて、
今でこそ誇りを持ってますが
10代の頃は実家の仕事も京都も大嫌いで、東京に出たんです。
卒業後はスポーツ雑誌の編集者として
海外で活躍する選手を取材してたんですね。
そこで出会う外国人の方って京都への関心が高いんです。
そうやって外から京都を見る機会があったので、
今はその視点を活かして街づくりや商品のプロデュースをしています。
幸喜)
最近では沖縄の案件も手がけてらして
今回も紅型の海外展開の打ち合わせでご来沖されていたので
こうして場を設けさせていただきました。
島田)
はい、今は沖縄の紅型を海外に伝えるお手伝いなどもしてますね。
やっぱり京都でいくら歴史があるとはいえ
京友禅の着物をそのまま海外に売るのは難しい。
そこでアロハに仕立てることで
日常着にしたらすごく評価をいただいたんですね。
廃れていた京友禅の会社が、
今ではとても盛り上がっています。

安里)
面白いですね。
幸喜)
島田さんが講演などで話されている考えに
「作る力を1とすると、伝える力に5使え」
というものがあるんですが、
私も自分のお店「ブエノチキン」を運営する中で
本当にこれは大事なことだなと感じています。
ウチナーンチュは伝えるのが下手だから頑張らんといけないな、と。
島田)
そうです、自分たちの良さを自分の口で伝えないといけない。
それができれば強いですね。
安里)
最近ではインフルエンサーといわれる
発信力のある人たちがいますよね。
プロダクトアウトからマーケットインに変わってる時代の中で
世の中に求められるものじゃないと残らないわけでしょう。
だからと言って単にいいものが売れる時代じゃなくて、
共感されるものが売れると思うんです。
いかに関心を向けてもらうかの工夫は
ますます必要になるんじゃないでしょうか。
幸喜)
いいものを作っても、それだけじゃあダメなんですね。
安里)
理屈では人は動かないんですよね。
特に最近感じるのは
「誰が伝えるか」も
すごく重要だということです。
これは政治でも同じで、
どんな公約を掲げたら当選できるのかって
よく議論されますよね。
でも、公約そのものも大事ですが
その政治家の魅力や共感される力も
ものすごく大事なんですよね。
小泉さんが郵政民営化を訴えて
小泉劇場とまで言われるブームを巻き起こしましたが、
郵政民営化したらどうなるかってことを
ちゃんと理解して投票した人がどれだけいたかということです。
「なんか分からないけど、この人ならやってくれそう」という期待、
小泉さんという「人」に期待を寄せたんですよね。
島田)
おっしゃる通りですね。
「人」はすごく大事です。
安里)
テレビが伝えた、新聞が伝えた、
っていうのは信頼度が大きい。
でも、今の20代以下の子達は
テレビも新聞も見ないんですよね。
僕の周りの10代は
YouTubeしか見ないと言っている。
僕らの世代は50インチの
テレビが欲しいなんて思ってたけど、
今の若者は「タブレットでいい」
という感性なんですよね。
幸喜)
50インチのテレビは持ち運べないですからね(笑)
そうやって一人一台、一コンテンツを見る時代だと思うと
大ヒットは生まれにくいですよね。
昔なんて、電気屋さんのテレビを町中の人が囲んで見てた!
島田)
そうそう、力道山の試合を見たり。
幸喜)
そうやってみんなで一つの情報、
一つのコンテンツをシェアしてたからこそ
国民的ブームや大ヒットが生まれたり
誰もが知ってるテレビCMが生まれたりしたと思うんですが
今や一人ひとりがyoutubeやネットメディアの違うチャンネルを見ている。
みんなに同じことを一気に伝えるのがとても難しいなと思います。
安里)
あのCMのあの歌ねー!という共感は生まれにくいよね。
島田)
今は大きく勝負するのではなくて、
マイクロだけどエッジの効いたものに移行しています。
東西ドイツの壁を倒したのは
ドリルで開けた一つの穴だったそうです。
力をかけて倒そうとしても倒れなかったものが
一つの穴からガラガラと崩れる。
いいエピソードだなと思って覚えているんですが、
そういうゲリラ的なものが世の中で評価される気がしますね。
安里)
全てに通じることだと思いますね。
そんな世の中だから、
10年前はこうだったという経験値そのものが
これからの時代を作る上では
阻害要因になりうる。
幸喜)
うわ~!恐ろしい!
安里)
以前とはあまりに時代が違うんですよね。
島田)
そうですね。
僕はアイデアの数は
移動距離に比例すると思っていて。
僕も常に国内外を移動していますが、
アジアの僻地に行くと特に面白い。
そこで得たものが新しい発想の源になりますね。
先日行ったブータンでも発見がたくさんありましたが、
安里さんも常に移動されてますよね。
その間にアイデアの発酵があるんじゃないですか。

安里)
それもありますが、
僕は基礎学力を身につけてこなかったことが
発想の源になってる気がします。
僕の中での常識というものがなかった。
幸喜)
なるほど、それがむしろ既成概念を作らなかったんですね!
安里)
もし思春期にたくさん知識をインプットしてたら
今の僕はなかった気がする。
それは誰が決めたの?本当なの?っていう
クエッションを持ったまま大人になったから
今の自分があるのかな、と。
暗記教育を受けてないことが
プラスに働いた稀な例かもしれません(笑)。
島田)
なるほど、その分、自分で考える力がついたというわけですね。
安里)
そうです、
うですね、
この局面をどうまとめるか、
どう納得させられるか、
常に考えなければいけなかった。
幸喜)
確かに、暗記したものから答えを出すという作業をしてこなかった分、
常に自力で答えを出さなきゃいけない。
しかし、これは誰にでも真似できることじゃないですね(笑)
安里)
推奨はできませんね(笑)
島田)
覚えずに自分で考えろ、感じろ、ということですね。
今は覚えるような知識はビッグデータに預けておけばいいわけですから。
安里)
そうでうすね。
そうやって自分で考えていかないと
この国は持たないですよ。
10年後、日本がどこに立ってるかと考えた時に、
日本の上流階級はぜんぶ外国の方、
という時代になっているかもしれない。
幸喜)
インドや中国の方に牛耳られているかもしれない。
安里)
だって観光においても
日本文化のイニシアチブを
外国人であるアトキンソン氏(参考)が牽引してたりするわけです。
僕は彼とも仲がいいので、すごいなと思う反面、
僕ら日本人は大丈夫かよと危機感を抱きます。
(参考)デイビッド・アトキンソン氏
イギリス出身で日本在住の経営者。小西美術工藝社社長で金融アナリストと言う経歴を持つ。
日本の文化財の専門家であり、著書「新・観光立国論」が話題となった。
昨年、安里氏が企画した講演会のため来沖したことをきっかけに親交を深める。
島田)
僕も彼とは京都の家が近いので親しくさせていただいてますが、
もちろん彼の意見は素晴らしいし本質を突いているけれども
迎合して鵜呑みにしてしまうのは良くない。
僕らが自分ごととして考えないと
いい方に変わらない気がしますね。
安里)
僕らなりの答えを出していかないといけませんよね。
マーケティングの概念は共有しながらも主体性は失わずにいたい。
特に地域の人がそれを失ってしまうと、
「ふるさと」という概念も壊れてしまう気がします。
僕らがやらなきゃいけないことを
外国の方ばかりに任せちゃいけないですよ。
最後は「誰がやるの」ということで、
その「誰」に僕らがならなければいけない。
そのために今日を生きてるわけだから、
朝子みたいにインフルエンザになってる場合じゃない(笑)
幸喜)
インフルエンサーどころかインフルエンザになってしまいましたからね~(笑)
今日は病み上がりのガラガラ声で失礼しました!
島田)
今日はお会いできてよかったです。
安里)
また京都の街を案内してくださいね!
ありがとうございました。




2017年09月29日
安里繁信のしげ脳vol.336「30代後継者座談会~その3~」
安里繁信のしげ脳vol.336「30代後継者座談会~その3~」

「上間弁当天ぷら店」「兼城自動車」「SUNSET FARM IKEHARA」をそれぞれ営む
上間喜壽さん、兼城力也さん、池原公平さんを迎えての座談会、第二弾!
3名の30代ウチナーンチュ後継者とともに、
同じく後継として家業を成長させてきた安里繁信が
それぞれの苦労話や取り組みについて語り合います。
「30代後継者座談会~その1~」はこちら
http://shigenou.ti-da.net/e9732647.html
「30代後継者座談会~その2~」はこちら
http://shigenou.ti-da.net/e9789931.html
●上間弁当天ぷら店webサイト https://uemabento.com/
●兼城自動車webサイト http://kaneshirojidousha.com/
●SUNSET FARM OKINAWA webサイト http://sunsetfarmokinawa.click/
幸喜)
みなさんが具体的にしてきたことを伺いたいのですが、
兼城さんは結構な額の借金がありましたよね。
すごく大変なスタートですが
どういう風に経営を変えていったんですか?
兼城)
例えば工場長に自分の部門の損益を計算をしてもらいました。
電卓をたたいて固定費出してもらって、
まずここまで売上立てないとしょうがないよねという話をしたんです。
幸喜)
えっ、それは兼城さんが入るまで計算されてなかったんですか?!
兼城)
はい、してなかったですよ!
うちの会長も現場でずっと作業してたので
経理がちゃんとしてなかったんです。
だから僕がしたのはそこからですね。
工場長もほっとくと現場作業に没頭してしまうので
僕が一緒に席に座って
強制的に経理の時間を作って徹底しましたね。

幸喜)
自分で数字を把握させて、
そこからいくら利益が出せるかを考えてもらったんですね。
報酬もわかりやすく設定したんですか?
兼城)
もちろん、計画を立てる中でちゃんと出してます。
うちはまず給料を14か月で計算して、
2か月分に賞与を組み込んだんです。
それを12か月で割れば
賞与をもらうには月にいくら
稼げばいいか把握できますよね。
幸喜)
なるほど!
やっぱりそれで各自の意識って変わりますか?
兼城)
全然違います。
その月の20日で後150万円足りない時もあれば
20日で損益分岐点を超えてることもありますが
それを分かりながら運営するのと
分からずに運営するのとでは全然違いますよね。
それをちゃんと把握して、できるだけ早い段階で
月ごとの売り上げを達成して
賞与に積み上げていけるようにしようと話しましたね。
幸喜)
わかりやすいですね!
気になる借金は返せたんですか?
兼城)
ほぼほぼ、返済を終えましたね。
幸喜)
すごい!ちなみに額は、、、。
兼城)
2億4千万です(笑)
幸喜)
池原さんは「農業という仕事に誇りを持たせる」ために
頑張ったという話をしてましたが、
具体的にはどういう活動をしたんですか?
安里会長もすごく以前から
「社員が子供に自慢できる会社にしたい」と常々おっしゃっていました。
池原さんもそういう風に、想いを伝え続けたのかな、と。
池原)
そうですね、僕が農業をスタートさせたのが11年前で
全員現場で汗水流して働いてて
それはもちろんいいことだなと思うんです。
ただ、失礼なことですが先輩方の中に
僕がこうなりたいという方や
尊敬できる方があまりいなくて。
例えば休憩所の机にはパチンコ雑誌が並んでて
休憩時間には携帯電話でゲームしてたり、
タバコの吸い殻を畑に捨ててたりして
それがすごく寂しかったんです。
僕は農業もかっこいいし面白いと思うし
みんなにもそう思って欲しかったので・・・
最初からどういう作業着にするかとか考えたり
僕より後輩には農業がいかに楽しいか伝えることを意識してましたね。
幸喜)
そういう方も意識は変わったんですか?
池原)
独立していったので今はどう思ってるか分かりませんが
今はおかげさまで僕の考えを理解してくれる後輩が入ってきてますね。
農業は個人でやってる方が多くて
法人としてやってるところは少ないですが、
全国的に徐々に増えてきてるので
本当に面白い分野だと思います。
幸喜)
関東なんかにはオシャレに農業やってるところありますよね。
池原)
ちなみに僕から質問なんですが、
安里さんの一番のピンチを
教えて欲しいです!
安里)
そうだなぁ、今でも思い出して
冷や汗が出るのは2008年。
年商60億円の県内大手問屋さんを
引き取ることになったんです。
水面下の交渉を続けて、
保証の差し替えも株の移動も終わって、
人も送り込んで再生して1か月ぐらい経った時に
その会社が沖縄での代理店的なFC契約を供給元から解除され、
供給元である本体が直接沖縄に進出することになった。
そうなると僕らが引き取った
沖縄法人の抱える売上と負債と人件費のうち、
負債と人件費だけが残ってしまう。
ましてや売り掛けも残ってる。
これを聞いた時は背中が凍りついた。
連鎖倒産、っていう言葉まで
頭をよぎりましたね。
一同)うわー・・・。
上間)
背筋凍りますね。
安里)
僕は東京にいたんですが翌日すぐ沖縄に戻って
その会社の旧オーナーさんたちから報告を受けて。
内心は冷や汗タラタラしながらも冷静な振りして
対策を話し合って。
結果、登記を戻したり従業員への対応とか、
2日で手を打ちましたね。
幸い、旧オーナーさん達が
僕らに迷惑をかけたくないと言ってくださったので
痛手を負うことなく終わらせることができました。
池原)
誠実な対応をしてもらえたんですね。
それにしても100億円規模ですよね・・・恐ろしいです。
安里)
社員が動揺しないように
うちの社内にもあまり話さなかったですね。
僕が動揺してたから(笑)
幸喜)
会長が動揺した話は初めて聞きました!
安里)
1か月のうちでこんなことが起きるんだから、
いつ何があるか分からないよなぁ!
外資なんて、僕の人生に出てくる予定なかったよ(笑)

安里氏がトラック運転手だった頃の写真

池原)
やっぱり長く経営してると
ピンチは他にもありましたか?
安里)
僕の場合は比較的早く社長職を引いたので、
それ以外に大きな危機はなかったね。
これは性格ですが、ある程度会社が軌道に乗ったら
あとは興味ないんだよね。
幸喜)
会長は難局を切り開いていくタイプですもんね、
会長の手を離れたということは安定経営ということでしょうか(笑)
上間)
ずばりお聞きしたいんですが、
安里さんこの後なにをされるんですか?
いろんなところに顔を出されていますから、
政治をやるのかなぁと思って見ているのですが。
安里)
僕!?なんで僕が政治やるの(笑)
池原)
そういうわけではないんですね~。
今やられている具体的な活動はなんですか?
安里)
うーん、なんなのか考えながら活動してる(笑)
兼城)
動いてはいるけど定義はできていないという感じですか?
安里)
定義は決まってるんだよ、
「僕でならなければならない理由が存在するか」
そこに理由があれば業種業界問わず行きますね。
観光を含め経済政策にもコミットするし。
世の中に影響力のある存在にならなければ
世の中は変えられないし
インパクトの小さい企業でも変えられない。
社会を変えたいと思うなら
より存在感と影響力を身につけなきゃいけない。
だから強いて言うなら今やっていることは
その位置に自分が立てるか、にチャレンジしてる。
幸喜)
具体的に「これをしてから影響力が増したな!」と感じた経験はありますか?
安里)
えっとね、28歳で宣伝を立ち上げた頃が
ちょうど太田県政から稲嶺県政に変わる時だったんですが
僕は稲嶺側の青年部長だったんです。
そこで、稲嶺県政にしないと沖縄の経済は持たないぞ、
と商工会とかを回って説得したり仲間を作ったりしてたんです。
幸喜)
それはどういった理由から応援してたんですか?
安里)
うちの親父が一番最初に企業と契約したのが
琉石冷蔵(現りゅうせき低温流通)だったからね。
幸喜)
なるほど、そこで選挙というものを近くで見たんですね。
池原)
最初に関わったのが市町村とかじゃなくて
県知事選ということですよね。
それもまたすごいです。
安里)
ビジネスでもなんでもそうですが、
自分じゃなきゃやれないことじゃなければ
意味がないと思ってて。
この選挙の応援も求められて
応じる意味があると確信したから
関わらせていただきました。
そうじゃなきゃ家に帰って
子供と遊んだほうがいいですからね。
池原)
ということは、逆に言うと必要を感じるタイミングがあれば
ご自身が政治にチャレンジするということですか。
安里)
そうですね、誰かの代わりではやりたくないですね。
とにかく、社会や業界に
コミットしていこうと思ったら
自ら政治・経済・社会の活動に
飛び込んでいくことが必要。
例えば孫正義さんも政治にコミットしているよね。
松下幸之助もそうです。政経塾を作ったでしょう。
上間)
政治の枠組みの外で何か言っても体制を変えられないということですね。
最近そういうことを少し感じます。
幸喜)
上間さんとこぐらいの売上になると感じられるようになるんですね!
上間)
いやいや(笑)
ここからどこに舵を切ろうかと考えた時に
どこを向いてもその壁があるというか。
だから腹を決めて政治の中にも
入っていかないといけないのかなと
感じていました。
安里)
そうですね、商売をするにしても目の前の損得よりも
政治力を持つ方がある意味、近道だったりするわけです。
入ってくる情報量も違ってくるでしょうし。
決して「政商」的な、癒着のような意味ではないですよ(笑)。
上間)
なるほど、
先日、とある社長の会合に誘っていただいたんですが
参加されてるほとんどが60代以上の経営者の方で
そこには政治家の方も参加しててつがなっていて。
そういう社会があるんだと肌で感じたんですが、
僕らみたいな若い世代が
沖縄でどんどんパイを広げていきたいと思った時に
いずれそことぶつかるのか、
もしくはぶつからないように
やっていくことを考えないといけないのか、
そこが今自分の中で考えてることです。
兼城)
それは気になるところです。
沖縄でそういう既得権益にぶつからずに
どううまくやっていけばいいのか。
安里)
それがね、ぶつかるんだよ~(笑)
これはどこの国でもそうですが
「経済政治」とは言わないんですよ。
「政治経済」と表現する。
つまり政治と経済は表裏一体ですが、
政治が先なんです。
だから政治が良くならないと
経済は良くならない。
僕らが最大限、政治にコミットしていこうとしてるのは
政治の安定、あるいは政治の変化がない限り
規制緩和は生まれないし
次に対する投資が生まれないことを知っているから。
法律から条例から全部、政治が決める。
その枠組みの中で僕らの営みがあるわけです。
雇用もだし、すべてのルールは政治が作っている。
幸喜)
経営者はその中で勝負しないといけないわけですからね。
安里)
それを「勝手に政治が決めた」と文句を言うんじゃなくて
そこに対して関心を寄せていかないといけない。
外野で吠えたい人はそうしたらいいと思うんですが
相手にされないんですよね。
本当に変えていこうと思ったら
政治にコミットしていかないといけない。
池原)
政治と関わる中で安里さんが経営する上でのスピード感と
政治の鈍さってギャップがありすぎて歯がゆくないですか?
幸喜)
そうですよね、経営者なら1日で変えられるようなことも
政治だと1か月どころか数年かかる場合もありますよね。
安里)
法律や条例が定める仕組みそのものを
変えなきゃいけないという事情もあるんだけど
スピード感って大事だと僕は考えてますから、
もちろんギャップは感じますよね。
だから僕が関わる時は出来る限り期限を決めてネジ巻くんです。
池原)
ほおー!
安里)
公の仕事って、プロセスの美学って言われたりもするように
過程に意味があると言われるんですね。
それも一理あるんですが、
僕としてはケツ切っていきたい。
だから沖縄観光コンベンションビューローの会長をしてた時は
それを意識して動いてました。
それでできたことが、予算の大幅アップ、
前年比数倍以上をつけることができました。
これはちょっと自負できるかな。
兼城)
翌年に数倍以上って、すごいスピード感ですね。
安里)
もちろん全部、事前に業界の各部門からヒアリングして
周到に事業計画を作って裏付けとって
行政の計画を把握して動きましたよ。
結果出さないといけないし相当なリスクですけどね。
国会に参考人招致で呼ばれたりして・・・(笑)
池原)
そんなこともあったんですか!
冷や汗ものですね!
しかし、これまでの話を伺ってると
会長は資金調達がとにかく上手いと感じます。
安里)
いや、そうじゃなくてね、
「ロマンとそろばん」なんです。
ロマンだけじゃ飯が食えない。
そろばんも必要。
経営でも街づくりでもそうです。
口だけ番長では説得力がないし
お金だけでも人はついてこない。
その両方を持って世の中と向き合うんです。
そして5年先、10年先に
ここまで伸ばしたいというイメージを
漠然とでもいいので持っておかないとね
日常で満足してはいけない。
間違っても成功者気取りせずにね、
ここからどう産業や地域をリードしていくか考えてください。
褒められてチヤホヤされてるうちはね、まだ甘いんです。
周りから警戒されたり叩かれた時が
本当に存在感が出てきたと思ってください。
幸喜)
2チャンネルで叩かれまくった会長の言葉は重みがあります!
一同)爆笑
安里)
そうでしょう(笑)
上間)
僕らのレベルは本当に、今そんなところですね。
池原)
先輩たち快く応援してくれてますからね(笑)
安里)
よく覚えてるのがね、
会社の年商が40億を超えた頃に
あるフォーラムに勢いがある会社としてパネーラで呼ばれた時に
隣の財界の方に「中小企業って50億から呼ぶんですよ」って(笑)
一同)ええーっ(笑)
安里)
その規模は零細企業です、ってね(笑)
ちっきしょうと思ったよ。
池原)
安里さんにもそんな時代があったなんて
勇気付けられます(笑)
安里)
でね、それなりに売上も大きくなったところで
また経済フォーラムに呼ばれて
某大企業の会長さんが議論に追い込まれ放った言葉が
「ところで年商いくら?」(笑)
相手は何兆円と稼いでる方でしたから、
僕らの売上なんて小さい小さい。
いくら対等に議論してても
売上はその程度か、これからだなぁ!
って言われたらもう何も言えない。
まぁ見とけ、と思うしかないですよね~。
ちなみに僕もたくさんの方にお会いしますが、
20代30代でベンチャーから始めた方の中でも
口だけ番長で終わる方と
40代過ぎても頑張って成長してる方、
極端に分かれるんです。
池原)
何がどう違うんですか?
安里)
生き方ですね。
どれだけ自分に厳しくできるか。
ストイックにやれた人は伸びていきますし、
居心地のいい場所で
満足してる人は成長が止まるし。
僕はとにかく一回りも二回りも
年齢の違う先輩に食いついていきましたよ。
呼ばれたら10秒以内に行きます!ってね。
そうやって自分がジャンプしても
届かないような方についていけば
それだけ成長できます。
同年代の方とつるむのは年に1回ぐらいにして
成長できる人に会いに行く時間を作ってください。
そして皆さん、こいつがいたら革命が起きるなって
思わせるように頑張ってください!
成功なんて死ぬまで分かりませんからね、
僕も頑張ります!
上間)
まだまだできることがいっぱいあるなと思いました!
一同)ありがとうございます!




「上間弁当天ぷら店」「兼城自動車」「SUNSET FARM IKEHARA」をそれぞれ営む
上間喜壽さん、兼城力也さん、池原公平さんを迎えての座談会、第二弾!
3名の30代ウチナーンチュ後継者とともに、
同じく後継として家業を成長させてきた安里繁信が
それぞれの苦労話や取り組みについて語り合います。
「30代後継者座談会~その1~」はこちら
http://shigenou.ti-da.net/e9732647.html
「30代後継者座談会~その2~」はこちら
http://shigenou.ti-da.net/e9789931.html
●上間弁当天ぷら店webサイト https://uemabento.com/
●兼城自動車webサイト http://kaneshirojidousha.com/
●SUNSET FARM OKINAWA webサイト http://sunsetfarmokinawa.click/
幸喜)
みなさんが具体的にしてきたことを伺いたいのですが、
兼城さんは結構な額の借金がありましたよね。
すごく大変なスタートですが
どういう風に経営を変えていったんですか?
兼城)
例えば工場長に自分の部門の損益を計算をしてもらいました。
電卓をたたいて固定費出してもらって、
まずここまで売上立てないとしょうがないよねという話をしたんです。
幸喜)
えっ、それは兼城さんが入るまで計算されてなかったんですか?!
兼城)
はい、してなかったですよ!
うちの会長も現場でずっと作業してたので
経理がちゃんとしてなかったんです。
だから僕がしたのはそこからですね。
工場長もほっとくと現場作業に没頭してしまうので
僕が一緒に席に座って
強制的に経理の時間を作って徹底しましたね。

幸喜)
自分で数字を把握させて、
そこからいくら利益が出せるかを考えてもらったんですね。
報酬もわかりやすく設定したんですか?
兼城)
もちろん、計画を立てる中でちゃんと出してます。
うちはまず給料を14か月で計算して、
2か月分に賞与を組み込んだんです。
それを12か月で割れば
賞与をもらうには月にいくら
稼げばいいか把握できますよね。
幸喜)
なるほど!
やっぱりそれで各自の意識って変わりますか?
兼城)
全然違います。
その月の20日で後150万円足りない時もあれば
20日で損益分岐点を超えてることもありますが
それを分かりながら運営するのと
分からずに運営するのとでは全然違いますよね。
それをちゃんと把握して、できるだけ早い段階で
月ごとの売り上げを達成して
賞与に積み上げていけるようにしようと話しましたね。
幸喜)
わかりやすいですね!
気になる借金は返せたんですか?
兼城)
ほぼほぼ、返済を終えましたね。
幸喜)
すごい!ちなみに額は、、、。
兼城)
2億4千万です(笑)
幸喜)
池原さんは「農業という仕事に誇りを持たせる」ために
頑張ったという話をしてましたが、
具体的にはどういう活動をしたんですか?
安里会長もすごく以前から
「社員が子供に自慢できる会社にしたい」と常々おっしゃっていました。
池原さんもそういう風に、想いを伝え続けたのかな、と。
池原)
そうですね、僕が農業をスタートさせたのが11年前で
全員現場で汗水流して働いてて
それはもちろんいいことだなと思うんです。
ただ、失礼なことですが先輩方の中に
僕がこうなりたいという方や
尊敬できる方があまりいなくて。
例えば休憩所の机にはパチンコ雑誌が並んでて
休憩時間には携帯電話でゲームしてたり、
タバコの吸い殻を畑に捨ててたりして
それがすごく寂しかったんです。
僕は農業もかっこいいし面白いと思うし
みんなにもそう思って欲しかったので・・・
最初からどういう作業着にするかとか考えたり
僕より後輩には農業がいかに楽しいか伝えることを意識してましたね。
幸喜)
そういう方も意識は変わったんですか?
池原)
独立していったので今はどう思ってるか分かりませんが
今はおかげさまで僕の考えを理解してくれる後輩が入ってきてますね。
農業は個人でやってる方が多くて
法人としてやってるところは少ないですが、
全国的に徐々に増えてきてるので
本当に面白い分野だと思います。
幸喜)
関東なんかにはオシャレに農業やってるところありますよね。
池原)
ちなみに僕から質問なんですが、
安里さんの一番のピンチを
教えて欲しいです!
安里)
そうだなぁ、今でも思い出して
冷や汗が出るのは2008年。
年商60億円の県内大手問屋さんを
引き取ることになったんです。
水面下の交渉を続けて、
保証の差し替えも株の移動も終わって、
人も送り込んで再生して1か月ぐらい経った時に
その会社が沖縄での代理店的なFC契約を供給元から解除され、
供給元である本体が直接沖縄に進出することになった。
そうなると僕らが引き取った
沖縄法人の抱える売上と負債と人件費のうち、
負債と人件費だけが残ってしまう。
ましてや売り掛けも残ってる。
これを聞いた時は背中が凍りついた。
連鎖倒産、っていう言葉まで
頭をよぎりましたね。
一同)うわー・・・。
上間)
背筋凍りますね。
安里)
僕は東京にいたんですが翌日すぐ沖縄に戻って
その会社の旧オーナーさんたちから報告を受けて。
内心は冷や汗タラタラしながらも冷静な振りして
対策を話し合って。
結果、登記を戻したり従業員への対応とか、
2日で手を打ちましたね。
幸い、旧オーナーさん達が
僕らに迷惑をかけたくないと言ってくださったので
痛手を負うことなく終わらせることができました。
池原)
誠実な対応をしてもらえたんですね。
それにしても100億円規模ですよね・・・恐ろしいです。
安里)
社員が動揺しないように
うちの社内にもあまり話さなかったですね。
僕が動揺してたから(笑)
幸喜)
会長が動揺した話は初めて聞きました!
安里)
1か月のうちでこんなことが起きるんだから、
いつ何があるか分からないよなぁ!
外資なんて、僕の人生に出てくる予定なかったよ(笑)

安里氏がトラック運転手だった頃の写真

池原)
やっぱり長く経営してると
ピンチは他にもありましたか?
安里)
僕の場合は比較的早く社長職を引いたので、
それ以外に大きな危機はなかったね。
これは性格ですが、ある程度会社が軌道に乗ったら
あとは興味ないんだよね。
幸喜)
会長は難局を切り開いていくタイプですもんね、
会長の手を離れたということは安定経営ということでしょうか(笑)
上間)
ずばりお聞きしたいんですが、
安里さんこの後なにをされるんですか?
いろんなところに顔を出されていますから、
政治をやるのかなぁと思って見ているのですが。
安里)
僕!?なんで僕が政治やるの(笑)
池原)
そういうわけではないんですね~。
今やられている具体的な活動はなんですか?
安里)
うーん、なんなのか考えながら活動してる(笑)
兼城)
動いてはいるけど定義はできていないという感じですか?
安里)
定義は決まってるんだよ、
「僕でならなければならない理由が存在するか」
そこに理由があれば業種業界問わず行きますね。
観光を含め経済政策にもコミットするし。
世の中に影響力のある存在にならなければ
世の中は変えられないし
インパクトの小さい企業でも変えられない。
社会を変えたいと思うなら
より存在感と影響力を身につけなきゃいけない。
だから強いて言うなら今やっていることは
その位置に自分が立てるか、にチャレンジしてる。
幸喜)
具体的に「これをしてから影響力が増したな!」と感じた経験はありますか?
安里)
えっとね、28歳で宣伝を立ち上げた頃が
ちょうど太田県政から稲嶺県政に変わる時だったんですが
僕は稲嶺側の青年部長だったんです。
そこで、稲嶺県政にしないと沖縄の経済は持たないぞ、
と商工会とかを回って説得したり仲間を作ったりしてたんです。
幸喜)
それはどういった理由から応援してたんですか?
安里)
うちの親父が一番最初に企業と契約したのが
琉石冷蔵(現りゅうせき低温流通)だったからね。
幸喜)
なるほど、そこで選挙というものを近くで見たんですね。
池原)
最初に関わったのが市町村とかじゃなくて
県知事選ということですよね。
それもまたすごいです。
安里)
ビジネスでもなんでもそうですが、
自分じゃなきゃやれないことじゃなければ
意味がないと思ってて。
この選挙の応援も求められて
応じる意味があると確信したから
関わらせていただきました。
そうじゃなきゃ家に帰って
子供と遊んだほうがいいですからね。
池原)
ということは、逆に言うと必要を感じるタイミングがあれば
ご自身が政治にチャレンジするということですか。
安里)
そうですね、誰かの代わりではやりたくないですね。
とにかく、社会や業界に
コミットしていこうと思ったら
自ら政治・経済・社会の活動に
飛び込んでいくことが必要。
例えば孫正義さんも政治にコミットしているよね。
松下幸之助もそうです。政経塾を作ったでしょう。
上間)
政治の枠組みの外で何か言っても体制を変えられないということですね。
最近そういうことを少し感じます。
幸喜)
上間さんとこぐらいの売上になると感じられるようになるんですね!
上間)
いやいや(笑)
ここからどこに舵を切ろうかと考えた時に
どこを向いてもその壁があるというか。
だから腹を決めて政治の中にも
入っていかないといけないのかなと
感じていました。
安里)
そうですね、商売をするにしても目の前の損得よりも
政治力を持つ方がある意味、近道だったりするわけです。
入ってくる情報量も違ってくるでしょうし。
決して「政商」的な、癒着のような意味ではないですよ(笑)。
上間)
なるほど、
先日、とある社長の会合に誘っていただいたんですが
参加されてるほとんどが60代以上の経営者の方で
そこには政治家の方も参加しててつがなっていて。
そういう社会があるんだと肌で感じたんですが、
僕らみたいな若い世代が
沖縄でどんどんパイを広げていきたいと思った時に
いずれそことぶつかるのか、
もしくはぶつからないように
やっていくことを考えないといけないのか、
そこが今自分の中で考えてることです。
兼城)
それは気になるところです。
沖縄でそういう既得権益にぶつからずに
どううまくやっていけばいいのか。
安里)
それがね、ぶつかるんだよ~(笑)
これはどこの国でもそうですが
「経済政治」とは言わないんですよ。
「政治経済」と表現する。
つまり政治と経済は表裏一体ですが、
政治が先なんです。
だから政治が良くならないと
経済は良くならない。
僕らが最大限、政治にコミットしていこうとしてるのは
政治の安定、あるいは政治の変化がない限り
規制緩和は生まれないし
次に対する投資が生まれないことを知っているから。
法律から条例から全部、政治が決める。
その枠組みの中で僕らの営みがあるわけです。
雇用もだし、すべてのルールは政治が作っている。
幸喜)
経営者はその中で勝負しないといけないわけですからね。
安里)
それを「勝手に政治が決めた」と文句を言うんじゃなくて
そこに対して関心を寄せていかないといけない。
外野で吠えたい人はそうしたらいいと思うんですが
相手にされないんですよね。
本当に変えていこうと思ったら
政治にコミットしていかないといけない。
池原)
政治と関わる中で安里さんが経営する上でのスピード感と
政治の鈍さってギャップがありすぎて歯がゆくないですか?
幸喜)
そうですよね、経営者なら1日で変えられるようなことも
政治だと1か月どころか数年かかる場合もありますよね。
安里)
法律や条例が定める仕組みそのものを
変えなきゃいけないという事情もあるんだけど
スピード感って大事だと僕は考えてますから、
もちろんギャップは感じますよね。
だから僕が関わる時は出来る限り期限を決めてネジ巻くんです。
池原)
ほおー!
安里)
公の仕事って、プロセスの美学って言われたりもするように
過程に意味があると言われるんですね。
それも一理あるんですが、
僕としてはケツ切っていきたい。
だから沖縄観光コンベンションビューローの会長をしてた時は
それを意識して動いてました。
それでできたことが、予算の大幅アップ、
前年比数倍以上をつけることができました。
これはちょっと自負できるかな。
兼城)
翌年に数倍以上って、すごいスピード感ですね。
安里)
もちろん全部、事前に業界の各部門からヒアリングして
周到に事業計画を作って裏付けとって
行政の計画を把握して動きましたよ。
結果出さないといけないし相当なリスクですけどね。
国会に参考人招致で呼ばれたりして・・・(笑)
池原)
そんなこともあったんですか!
冷や汗ものですね!
しかし、これまでの話を伺ってると
会長は資金調達がとにかく上手いと感じます。
安里)
いや、そうじゃなくてね、
「ロマンとそろばん」なんです。
ロマンだけじゃ飯が食えない。
そろばんも必要。
経営でも街づくりでもそうです。
口だけ番長では説得力がないし
お金だけでも人はついてこない。
その両方を持って世の中と向き合うんです。
そして5年先、10年先に
ここまで伸ばしたいというイメージを
漠然とでもいいので持っておかないとね
日常で満足してはいけない。
間違っても成功者気取りせずにね、
ここからどう産業や地域をリードしていくか考えてください。
褒められてチヤホヤされてるうちはね、まだ甘いんです。
周りから警戒されたり叩かれた時が
本当に存在感が出てきたと思ってください。
幸喜)
2チャンネルで叩かれまくった会長の言葉は重みがあります!
一同)爆笑
安里)
そうでしょう(笑)
上間)
僕らのレベルは本当に、今そんなところですね。
池原)
先輩たち快く応援してくれてますからね(笑)
安里)
よく覚えてるのがね、
会社の年商が40億を超えた頃に
あるフォーラムに勢いがある会社としてパネーラで呼ばれた時に
隣の財界の方に「中小企業って50億から呼ぶんですよ」って(笑)
一同)ええーっ(笑)
安里)
その規模は零細企業です、ってね(笑)
ちっきしょうと思ったよ。
池原)
安里さんにもそんな時代があったなんて
勇気付けられます(笑)
安里)
でね、それなりに売上も大きくなったところで
また経済フォーラムに呼ばれて
某大企業の会長さんが議論に追い込まれ放った言葉が
「ところで年商いくら?」(笑)
相手は何兆円と稼いでる方でしたから、
僕らの売上なんて小さい小さい。
いくら対等に議論してても
売上はその程度か、これからだなぁ!
って言われたらもう何も言えない。
まぁ見とけ、と思うしかないですよね~。
ちなみに僕もたくさんの方にお会いしますが、
20代30代でベンチャーから始めた方の中でも
口だけ番長で終わる方と
40代過ぎても頑張って成長してる方、
極端に分かれるんです。
池原)
何がどう違うんですか?
安里)
生き方ですね。
どれだけ自分に厳しくできるか。
ストイックにやれた人は伸びていきますし、
居心地のいい場所で
満足してる人は成長が止まるし。
僕はとにかく一回りも二回りも
年齢の違う先輩に食いついていきましたよ。
呼ばれたら10秒以内に行きます!ってね。
そうやって自分がジャンプしても
届かないような方についていけば
それだけ成長できます。
同年代の方とつるむのは年に1回ぐらいにして
成長できる人に会いに行く時間を作ってください。
そして皆さん、こいつがいたら革命が起きるなって
思わせるように頑張ってください!
成功なんて死ぬまで分かりませんからね、
僕も頑張ります!
上間)
まだまだできることがいっぱいあるなと思いました!
一同)ありがとうございます!




2017年08月17日
安里繁信のしげ脳vol.336「30代後継者座談会~その2~」
安里繁信のしげ脳vol.336「30代後継者座談会~その2~」
「上間弁当天ぷら店」「兼城自動車」「SUNSET FARM IKEHARA」をそれぞれ営む
上間喜壽さん、兼城力也さん、池原公平さんを迎えての座談会、第二弾!
3名の30代ウチナーンチュ後継者とともに、
同じく後継として家業を成長させてきた安里繁信が
それぞれの苦労話や取り組みについて語り合います。
「30代後継者座談会~その1~」はこちら
http://shigenou.ti-da.net/e9732647.html
●上間弁当天ぷら店webサイト https://uemabento.com/
●兼城自動車webサイト http://kaneshirojidousha.com/
●SUNSET FARM OKINAWA webサイト http://sunsetfarmokinawa.click/

幸喜)
安里会長も20代で父親の会社に入られてますが、
みなさんも20代の初めに事業を継がれていますよね。
兼城)
僕は26才の時ですね。
うちの兼城自動車整備工場は今年で50周年、
僕は三代目なんです。
安里)
兼城さんは中国で物流をやってたという
ちょっと異色の経歴ですよね。
兼城)
はい、シアトルで就職した物流会社の
中国支店の立ち上げがあったので
青島に行ってチーム編成や人材のトレーニングをしてました。
そこでいい流れを作れてたので実家の借金も返せるんじゃないかなと
自信もありましたし、挑戦したいなと思って沖縄に帰ってきて。
そこから僕の大変な冒険が始まるんですが(笑)
幸喜)
その実家の借金は確か・・。
兼城)
2億4千万です(笑)

池原)
大冒険だ(笑)
上間)
蓋を開けたら借金、というのは
後継あるあるですね(笑)
僕は大学卒業したら弁当屋を手伝うことに決めてましたが
大学4年の12月ぐらいに税務調査が入って。
うちの親はものすごい丼勘定でやってたし、
沖縄の弁当屋さんってどこもそうなんですが
ほっとくとご飯の量がどんどん増えていくし
とんかつもどんどん大きくなっていくんです(笑)
お客さまは来てくれるけど会計は厳しくなりますよね。
当時どれぐらい丼勘定だったかというと
レジがなくてダンボールに現金を投げ入れてた(笑)
そこに税務調査が来て追徴課税で8千万円取られたんですね。
一同)うわ~!
上間)
そもそも何で税務調査が来たかというと
両親は何を思ったのか、お客さんがどんどん来るから
工場をでかくしてやろうと考えて
1億2千万円ぐらいかけてドーンと工場を建てたんです。
そしたら税務署からそのお金はどこから来たの?と(笑)
なので僕がちょうど大学を卒業するタイミングで
すごい借金が二重でドカンと来てしまって
お店自体もうやっていけないかもという話になってましたが
妹もお店を手伝ってたし、このまま潰れると
家族の居場所がなくなる、それはまずいと思って
じゃあ僕が代表やりますと、そこで経営をスイッチしました。
それと同時に財務上の問題もあったので法人化して
社長としての初仕事は
連帯保証人の判子を押すという(笑)
今でも忘れられないですね。

幸喜)
重たい初仕事ですね!!
それが何歳ですか?
上間)
23歳です(笑)
最初は経理などの本ばっかり読んでたし
お坊ちゃん扱いされてて
「よしくん」なんて呼ばれてましたが(笑)
池原)
僕は23才の頃に父に弟子入りという形で働き始めました。
父は個人農家でしたが菊の生産者としては有名だった。
でも正直、菊農家の後継者になろうとは思ってなくて。
お金を貯めたら自分で別のことを起業しようと思ってたんですが
妻に「経営者になりたいなら農家を法人化したら」と言われて、なるほど、と。
それで31歳の時に法人化しました。

幸喜)
私は30才で広告代理店を退職してお店に入りました。
働く前は父に給料20万円と言われていましたが
だんだん減らされて働き始める頃には
母から「5万円」と宣告されて(笑)
安すぎるとブーブー文句を言ってたんですが、
なんと上間さんは最初の給料2万円、
兼城さんに至っては0円だったと聞いて
私はだいぶ贅沢だったんだなと(笑)
兼城)
はじめは自分のお金を使っていろいろ試してましたね。
安里)
巷では二代目、三代目って甘いよね、
甘やかされてるよね、っていう批判の声って多いと思いますが
世界の経営学をおさらいしていくと
ファミリービジネスでの継承の仕方が全体の90%、
100年を超える企業の継承モデルとしては
一番正しいということが結論づけられてる。
沖縄でこそ二代目、三代目って
頑張ってる感じがするけど
京都に行くと
まだベンチャーって言われる(笑)
向こうは十代目、二十代目が普通ですから。
幸喜)
我々まだまだですね〜。
安里)
僕は後継でもありますが、
自分で宣伝という広告代理店を立ち上げたのは28才。
これはOCC(沖縄クリエイティブセンター)という
広告代理店を引き取って名前を変えたんですね。
当時あんしんが年商10億ぐらいで、
OCCは年商17億ぐらい。
それだけ規模の違う会社を引き受けたんです。
上間)
すごい決断ですよね。
どういう経緯で引き受けることになったんですか?
安里)
話すと長いんですが、
あんしんを年商10億まで伸ばして
そこそこ頑張ってたんですが、
労働三法の見直しとかがあって
週休二日制度ができたんです。
みなさんは週休二日が当たり前だと思いますが、
あの頃の大人はみんな土曜日まで働いてた。
もちろんトラックの運転手もですから、
週休二日になると売上が1/6減るわけです。
せっかく10億の大台に乗ったのに売上が減ってしまう。
じゃあその分どうするか、ということで
引っ越しサービスを始めたんです。
幸喜)
そういう経緯なんですね!
安里)
それで、引っ越しサービスをするなら
テレビCMを打とうか、ということになって
そのCMに使ったのがkiroroの「長い間」という曲で、
それが大ヒットした。
彼女たちもメジャーデビューして、
あっという間に紅白歌合戦に出るまでになって。
そしたらダウンタウンが司会をしてた音楽番組に
kiroroさんが出た時に僕もちょろっと出て
「間違いなくヒットすると思った」ってコメントしたんです。
そしたら全国からデモテープが届いたんです!
その時、僕はただのトラックの運転手だよ(笑)
それと合わせてテレビCMを作ってくれっていう
依頼も殺到したんだけど、
僕のこの性格だから全部引き受けた。
そのための会社を作って受注して、
その発注先がOCCなんです。
当時、広告代理店として県内ナンバー2の規模でしたね。
そうやって取引する中で当時の社長さんから
会社ごと引き受けてくれと話が来たんです。
兼城)
そんな展開ですか!
安里)
それも銀行に相談したらみんな反対でした。
僕に資金があるわけでもないし業界も違うし
ましてや自分の会社あんしんより
規模が大きいわけです。
でも当時の財務部長と一緒に試算して
月賦で買い取り金額を返済したらいけるという算段ができたので
OCCと交渉してオッケーが出たので決まったんです。
池原)
月賦ですか~(笑)
上間)
株式の買い取りですか?
安里)
営業権に関わる債権債務の譲渡、ですね。
売り掛けも焦げ付きも全部引き取るということです。
どんな取引があるか分からないんので、
弁当箱の中身を引き受ける感じです。
それを僕が個人でやってた広告会社の器に入れて
社名を変えて新設の法人にしたわけです。
上間)
債務もあったんですね。
安里)
あったよぉ!それでも僕にとってはプラスが大きいと踏んだ。
それで先方からは1年かけて引き継いでくださいと言われたんだけど、
1ヶ月で引き継ぐと言って会社に入っていきました。
当時28歳だよ、会社の役員さんは年上しかいないし
社員も一気に100名抱えて。
池原)
社内の人材配置も変えたんですか?
安里)
うん、全員と個人面談やった上で適材適所を考えて。
もちろん、役員の方も含め辞めていった方もいます。
でも僕が発注側だった頃からの付き合いで
人間関係は作れてた部分もあったので、
引き継ぎは1か月でなんとか進めましたね。
幸喜)
いや~銀行に反対されても話を進めるなんてすごいですね。
池原)
事業計画があったんですか?
安里)
いや、当時は事業計画どころか
とにかくやる!
ということしか考えてなかった。
理屈の前に運命だな、みたいな。
一同)
すごいなぁ!
幸喜)
それでどうにかまとめるからすごいですよね!
会長にも結果オーライにならないことってあるんですか?
安里)
もちろんあるよ!
池原)
結果オーライと言えども
広告業界の利益構造は把握してたんですよね。
安里)
自分の営業力にも自信があったしね。
でも当時は、2チャンネルは
僕のホームページだっていうぐらい
僕のネタばっかりで参りましたよ。
とにかく叩かれてばっかり。
この性格なんで、なにくそもっとやってやると
逆に励みになりましたが(笑)
一同)爆笑
安里)
あとね、会社の買取の時に僕が考えたのはグロスのこと。
あんしんで言うと、トラック1台買うのに1千万かかるんです。
そのトラックで月の売り上げで人件費や減価償却を引いて、
1年で売り上げを10%伸ばせたとして、
年商4億円の10%って4千万円でしょう。
じゃあ僕の1年間の生産性って
4千万しかないのか、
他の方法でもっと生産性を
上げられるんじゃないかな
と思うようになったんです。

一同)なるほど。
安里)
確かに着実に事業を成長させてるよ、
でも僕はこれをいつまでやるんだろう、って。
トラック1千万円の投資より
100万円でもっと
リターンの大きいことができないかな、
ということを考えていた頃に
広告代理店の買取の話が来たんです。
兼城)
その方がリターンが大きいと考えたんですか。
安里)
うん、、、その会社を買い取った額が安いかどうかは
人それぞれの判断になると思うんですが、
僕が考えたのは、トラックを何台か買うのと会社を買うのでは、
どっちが一年間のグロスをあげらられるのか?ということです。
例えばトラック1台1千万円で買っても
年間売上はだいたい1千万。
10台買ったとしても1億でしょう。
だけど、広告代理店を買うと
17億のグロスは稼げるわけです。
2年間は僕が役員報酬をもらわなければキャッシュは回るし
5年では清算できるなと。
幸喜)
へえ、広告業界はこれから伸びるぞ!変えがいがあるぞ!!
という考え方とはまるで違うんですね。
安里)
うん、僕の投資の目線はいくつかあるんですが、
このケースはこんな感じでした。
10億の会社を10%業績上げた、それもすごい、
片方でこの17億円の会社を僕が1年間で立て直した時に
グロスで17億売り上げが増えるわけです。
宣伝は今では30億を超える売上規模になってますが、
そんな風に僕が1年かけて一つの会社を立て直すことができれば、
この分が全部プラスになる。
一同)なるほど。
安里)
なんでグロスのことを考えてたかというと
いろんな先輩方と話す中で僕がいくら生意気なこと言っても
「で、会社の年商いくら?」って聞かれるわけですよ(笑)
そこで「一生懸命稼いで3億いきました!」なんて言っても
「一桁かぁ。まぁ頑張ってるよね」なんて言われて相手にされない。
そんなレベルの方々と対等に渡り合うには
ある程度のグロスが必要だったんです。
幸喜)
なるほど、会長はそこに行きたかったんですね。
安里)
そこと、その先だね。
池原)
それを早く手に入れるためにトラックを何台も買うよりも
会社を買うことにしたんですね。
上間)
車じゃなくて時間を買った、ということですね。
安里)
そうそう、銀行から借り入れするのも
時間を買ってるようなものだから、それと一緒だよね。
兼城)
そういう考えに至るのは、もともとの性格ですか?
会長はどんな学生時代を過ごしてたか気になります。
安里)
僕はね、中学時代から日雇いのバイトを見つけて
仲間を連れてって、業者からもらう
各自のバイト代5000円から
1000円僕がもらったりして稼いでましたね。
高校の頃は先生と交渉をするために
学生をみんな集めて授業ボイコットしたり
給食センター襲撃したり(笑)
上間)
襲撃って!!そんなにお腹空いてたんですか(笑)!
幸喜)
そのバイタリティが今の立場に落ち着いてよかったですよね、
道を間違えたら今もどこかを襲撃してたかも!
一同)爆笑
安里)
人の道を外れなくてよかったよなぁ!
とにかくあの頃から
アンチテーゼが原動力だったんですよね。
みんなと同じことはしたくないし、
違うと思うことは違うって言いたいし。
だから皆さんを見ていいなと思うのは、
誰もかりゆしウェアやスーツを着てないでしょう。
ブエノチキンの法人化パーティーでもそうでしたが、
それぞれの立場らしい格好をしている。

ブエノチキン法人化パーティーでの一コマ
かりゆしウエェアやスーツも
もちろんユニフォームだったり
TPOに合わせて選ぶ必要もあるし
好んで着ている方も素晴らしいと思います。
僕もスーツが好きだしね。
ただ、みんなが着てるからそれでいい、
みんなと同じでいい、じゃなくて、
自分で判断してることが大事だと思う。
だから皆さんそれぞれ、自分らしい経営をしてるし、
これからもしていくんでしょうね。
頼もしく感じます!
一同)ありがとうございます!
まだまだ続く後継座談会。
次回、最終回は安里繁信の大ピンチ!?
ご期待ください。



「上間弁当天ぷら店」「兼城自動車」「SUNSET FARM IKEHARA」をそれぞれ営む
上間喜壽さん、兼城力也さん、池原公平さんを迎えての座談会、第二弾!
3名の30代ウチナーンチュ後継者とともに、
同じく後継として家業を成長させてきた安里繁信が
それぞれの苦労話や取り組みについて語り合います。
「30代後継者座談会~その1~」はこちら
http://shigenou.ti-da.net/e9732647.html
●上間弁当天ぷら店webサイト https://uemabento.com/
●兼城自動車webサイト http://kaneshirojidousha.com/
●SUNSET FARM OKINAWA webサイト http://sunsetfarmokinawa.click/

幸喜)
安里会長も20代で父親の会社に入られてますが、
みなさんも20代の初めに事業を継がれていますよね。
兼城)
僕は26才の時ですね。
うちの兼城自動車整備工場は今年で50周年、
僕は三代目なんです。
安里)
兼城さんは中国で物流をやってたという
ちょっと異色の経歴ですよね。
兼城)
はい、シアトルで就職した物流会社の
中国支店の立ち上げがあったので
青島に行ってチーム編成や人材のトレーニングをしてました。
そこでいい流れを作れてたので実家の借金も返せるんじゃないかなと
自信もありましたし、挑戦したいなと思って沖縄に帰ってきて。
そこから僕の大変な冒険が始まるんですが(笑)
幸喜)
その実家の借金は確か・・。
兼城)
2億4千万です(笑)

池原)
大冒険だ(笑)
上間)
蓋を開けたら借金、というのは
後継あるあるですね(笑)
僕は大学卒業したら弁当屋を手伝うことに決めてましたが
大学4年の12月ぐらいに税務調査が入って。
うちの親はものすごい丼勘定でやってたし、
沖縄の弁当屋さんってどこもそうなんですが
ほっとくとご飯の量がどんどん増えていくし
とんかつもどんどん大きくなっていくんです(笑)
お客さまは来てくれるけど会計は厳しくなりますよね。
当時どれぐらい丼勘定だったかというと
レジがなくてダンボールに現金を投げ入れてた(笑)
そこに税務調査が来て追徴課税で8千万円取られたんですね。
一同)うわ~!
上間)
そもそも何で税務調査が来たかというと
両親は何を思ったのか、お客さんがどんどん来るから
工場をでかくしてやろうと考えて
1億2千万円ぐらいかけてドーンと工場を建てたんです。
そしたら税務署からそのお金はどこから来たの?と(笑)
なので僕がちょうど大学を卒業するタイミングで
すごい借金が二重でドカンと来てしまって
お店自体もうやっていけないかもという話になってましたが
妹もお店を手伝ってたし、このまま潰れると
家族の居場所がなくなる、それはまずいと思って
じゃあ僕が代表やりますと、そこで経営をスイッチしました。
それと同時に財務上の問題もあったので法人化して
社長としての初仕事は
連帯保証人の判子を押すという(笑)
今でも忘れられないですね。

幸喜)
重たい初仕事ですね!!
それが何歳ですか?
上間)
23歳です(笑)
最初は経理などの本ばっかり読んでたし
お坊ちゃん扱いされてて
「よしくん」なんて呼ばれてましたが(笑)
池原)
僕は23才の頃に父に弟子入りという形で働き始めました。
父は個人農家でしたが菊の生産者としては有名だった。
でも正直、菊農家の後継者になろうとは思ってなくて。
お金を貯めたら自分で別のことを起業しようと思ってたんですが
妻に「経営者になりたいなら農家を法人化したら」と言われて、なるほど、と。
それで31歳の時に法人化しました。

幸喜)
私は30才で広告代理店を退職してお店に入りました。
働く前は父に給料20万円と言われていましたが
だんだん減らされて働き始める頃には
母から「5万円」と宣告されて(笑)
安すぎるとブーブー文句を言ってたんですが、
なんと上間さんは最初の給料2万円、
兼城さんに至っては0円だったと聞いて
私はだいぶ贅沢だったんだなと(笑)
兼城)
はじめは自分のお金を使っていろいろ試してましたね。
安里)
巷では二代目、三代目って甘いよね、
甘やかされてるよね、っていう批判の声って多いと思いますが
世界の経営学をおさらいしていくと
ファミリービジネスでの継承の仕方が全体の90%、
100年を超える企業の継承モデルとしては
一番正しいということが結論づけられてる。
沖縄でこそ二代目、三代目って
頑張ってる感じがするけど
京都に行くと
まだベンチャーって言われる(笑)
向こうは十代目、二十代目が普通ですから。
幸喜)
我々まだまだですね〜。
安里)
僕は後継でもありますが、
自分で宣伝という広告代理店を立ち上げたのは28才。
これはOCC(沖縄クリエイティブセンター)という
広告代理店を引き取って名前を変えたんですね。
当時あんしんが年商10億ぐらいで、
OCCは年商17億ぐらい。
それだけ規模の違う会社を引き受けたんです。
上間)
すごい決断ですよね。
どういう経緯で引き受けることになったんですか?
安里)
話すと長いんですが、
あんしんを年商10億まで伸ばして
そこそこ頑張ってたんですが、
労働三法の見直しとかがあって
週休二日制度ができたんです。
みなさんは週休二日が当たり前だと思いますが、
あの頃の大人はみんな土曜日まで働いてた。
もちろんトラックの運転手もですから、
週休二日になると売上が1/6減るわけです。
せっかく10億の大台に乗ったのに売上が減ってしまう。
じゃあその分どうするか、ということで
引っ越しサービスを始めたんです。
幸喜)
そういう経緯なんですね!
安里)
それで、引っ越しサービスをするなら
テレビCMを打とうか、ということになって
そのCMに使ったのがkiroroの「長い間」という曲で、
それが大ヒットした。
彼女たちもメジャーデビューして、
あっという間に紅白歌合戦に出るまでになって。
そしたらダウンタウンが司会をしてた音楽番組に
kiroroさんが出た時に僕もちょろっと出て
「間違いなくヒットすると思った」ってコメントしたんです。
そしたら全国からデモテープが届いたんです!
その時、僕はただのトラックの運転手だよ(笑)
それと合わせてテレビCMを作ってくれっていう
依頼も殺到したんだけど、
僕のこの性格だから全部引き受けた。
そのための会社を作って受注して、
その発注先がOCCなんです。
当時、広告代理店として県内ナンバー2の規模でしたね。
そうやって取引する中で当時の社長さんから
会社ごと引き受けてくれと話が来たんです。
兼城)
そんな展開ですか!
安里)
それも銀行に相談したらみんな反対でした。
僕に資金があるわけでもないし業界も違うし
ましてや自分の会社あんしんより
規模が大きいわけです。
でも当時の財務部長と一緒に試算して
月賦で買い取り金額を返済したらいけるという算段ができたので
OCCと交渉してオッケーが出たので決まったんです。
池原)
月賦ですか~(笑)
上間)
株式の買い取りですか?
安里)
営業権に関わる債権債務の譲渡、ですね。
売り掛けも焦げ付きも全部引き取るということです。
どんな取引があるか分からないんので、
弁当箱の中身を引き受ける感じです。
それを僕が個人でやってた広告会社の器に入れて
社名を変えて新設の法人にしたわけです。
上間)
債務もあったんですね。
安里)
あったよぉ!それでも僕にとってはプラスが大きいと踏んだ。
それで先方からは1年かけて引き継いでくださいと言われたんだけど、
1ヶ月で引き継ぐと言って会社に入っていきました。
当時28歳だよ、会社の役員さんは年上しかいないし
社員も一気に100名抱えて。
池原)
社内の人材配置も変えたんですか?
安里)
うん、全員と個人面談やった上で適材適所を考えて。
もちろん、役員の方も含め辞めていった方もいます。
でも僕が発注側だった頃からの付き合いで
人間関係は作れてた部分もあったので、
引き継ぎは1か月でなんとか進めましたね。
幸喜)
いや~銀行に反対されても話を進めるなんてすごいですね。
池原)
事業計画があったんですか?
安里)
いや、当時は事業計画どころか
とにかくやる!
ということしか考えてなかった。
理屈の前に運命だな、みたいな。
一同)
すごいなぁ!
幸喜)
それでどうにかまとめるからすごいですよね!
会長にも結果オーライにならないことってあるんですか?
安里)
もちろんあるよ!
池原)
結果オーライと言えども
広告業界の利益構造は把握してたんですよね。
安里)
自分の営業力にも自信があったしね。
でも当時は、2チャンネルは
僕のホームページだっていうぐらい
僕のネタばっかりで参りましたよ。
とにかく叩かれてばっかり。
この性格なんで、なにくそもっとやってやると
逆に励みになりましたが(笑)
一同)爆笑
安里)
あとね、会社の買取の時に僕が考えたのはグロスのこと。
あんしんで言うと、トラック1台買うのに1千万かかるんです。
そのトラックで月の売り上げで人件費や減価償却を引いて、
1年で売り上げを10%伸ばせたとして、
年商4億円の10%って4千万円でしょう。
じゃあ僕の1年間の生産性って
4千万しかないのか、
他の方法でもっと生産性を
上げられるんじゃないかな
と思うようになったんです。

一同)なるほど。
安里)
確かに着実に事業を成長させてるよ、
でも僕はこれをいつまでやるんだろう、って。
トラック1千万円の投資より
100万円でもっと
リターンの大きいことができないかな、
ということを考えていた頃に
広告代理店の買取の話が来たんです。
兼城)
その方がリターンが大きいと考えたんですか。
安里)
うん、、、その会社を買い取った額が安いかどうかは
人それぞれの判断になると思うんですが、
僕が考えたのは、トラックを何台か買うのと会社を買うのでは、
どっちが一年間のグロスをあげらられるのか?ということです。
例えばトラック1台1千万円で買っても
年間売上はだいたい1千万。
10台買ったとしても1億でしょう。
だけど、広告代理店を買うと
17億のグロスは稼げるわけです。
2年間は僕が役員報酬をもらわなければキャッシュは回るし
5年では清算できるなと。
幸喜)
へえ、広告業界はこれから伸びるぞ!変えがいがあるぞ!!
という考え方とはまるで違うんですね。
安里)
うん、僕の投資の目線はいくつかあるんですが、
このケースはこんな感じでした。
10億の会社を10%業績上げた、それもすごい、
片方でこの17億円の会社を僕が1年間で立て直した時に
グロスで17億売り上げが増えるわけです。
宣伝は今では30億を超える売上規模になってますが、
そんな風に僕が1年かけて一つの会社を立て直すことができれば、
この分が全部プラスになる。
一同)なるほど。
安里)
なんでグロスのことを考えてたかというと
いろんな先輩方と話す中で僕がいくら生意気なこと言っても
「で、会社の年商いくら?」って聞かれるわけですよ(笑)
そこで「一生懸命稼いで3億いきました!」なんて言っても
「一桁かぁ。まぁ頑張ってるよね」なんて言われて相手にされない。
そんなレベルの方々と対等に渡り合うには
ある程度のグロスが必要だったんです。
幸喜)
なるほど、会長はそこに行きたかったんですね。
安里)
そこと、その先だね。
池原)
それを早く手に入れるためにトラックを何台も買うよりも
会社を買うことにしたんですね。
上間)
車じゃなくて時間を買った、ということですね。
安里)
そうそう、銀行から借り入れするのも
時間を買ってるようなものだから、それと一緒だよね。
兼城)
そういう考えに至るのは、もともとの性格ですか?
会長はどんな学生時代を過ごしてたか気になります。
安里)
僕はね、中学時代から日雇いのバイトを見つけて
仲間を連れてって、業者からもらう
各自のバイト代5000円から
1000円僕がもらったりして稼いでましたね。
高校の頃は先生と交渉をするために
学生をみんな集めて授業ボイコットしたり
給食センター襲撃したり(笑)
上間)
襲撃って!!そんなにお腹空いてたんですか(笑)!
幸喜)
そのバイタリティが今の立場に落ち着いてよかったですよね、
道を間違えたら今もどこかを襲撃してたかも!
一同)爆笑
安里)
人の道を外れなくてよかったよなぁ!
とにかくあの頃から
アンチテーゼが原動力だったんですよね。
みんなと同じことはしたくないし、
違うと思うことは違うって言いたいし。
だから皆さんを見ていいなと思うのは、
誰もかりゆしウェアやスーツを着てないでしょう。
ブエノチキンの法人化パーティーでもそうでしたが、
それぞれの立場らしい格好をしている。

ブエノチキン法人化パーティーでの一コマ
かりゆしウエェアやスーツも
もちろんユニフォームだったり
TPOに合わせて選ぶ必要もあるし
好んで着ている方も素晴らしいと思います。
僕もスーツが好きだしね。
ただ、みんなが着てるからそれでいい、
みんなと同じでいい、じゃなくて、
自分で判断してることが大事だと思う。
だから皆さんそれぞれ、自分らしい経営をしてるし、
これからもしていくんでしょうね。
頼もしく感じます!
一同)ありがとうございます!
まだまだ続く後継座談会。
次回、最終回は安里繁信の大ピンチ!?
ご期待ください。



